飛騨高山から1万石で身を起こし,越中(富山県)ほぼ全域と,能登(石川県北部)の3分の2を奪って50万石の大名に成長した姉小路家,ugg 偽物。ところが,我が家を傘下に収め,一連の戦を暖かく見守ってくれていた柴田家とは,包囲網形成(対抗する勢力)イベントで仲違いが生じ,姉小路家はまたも孤立無援の身になった,ugg。前田と上杉を宿敵に持ついま,心細いことこの上ない。 と,そんなとき柴田家のほうから和議の提案があった。もともと降って湧いた災難だけに,異論などあろうはずもない。主従関係が外れ,互いに中立になったタイミングでこちらからも使者を送って,不戦同盟にまで漕ぎ着けた。 こんなに迅速な和平が可能だったのは,ひとえに主家だった頃の柴田家がこまめに使者を遣わし,我が家との関係改善/維持に努めてくれていたおかげだ。いわば他人のお金で平和を買ったわけである。 だが,良いことばかりは続かない。おそらく今回の騒ぎの元凶と見られる豊臣家は,美濃(岐阜県南部)をほぼ制圧すると,飛騨(岐阜県北部)の柴田領へと踏み込んできた。これにより我が家と領地が接するや,すかさず臣従要求の使者である。 無礼この上ないが,この時点でゆうに500万石を超える豊臣家に,逆らえようはずもない。我が家は苦渋の決断としてこれを受諾,今度は豊臣家の臣下となった。 一方柸毡兢扦媳碧跫窑啒丐虼_立しつつあり,徳川家はすでに信濃(長野県)北部と甲斐(山梨県)から枻颏工盲晔Г盲疲瑢澵N臣戦争にも目途が立たず,没落しつつある。滅亡は時間の問題だろう。 そんな情勢下,やむなく豊臣方となった我が家は,いつでも進出できる空白地として能登を放置し,北条より先に上杉領を切り取るべく,越後(新潟県)へ駒を進める。 たちまち春日山城を囲んでみたものの,人材なき我が家が上杉景勝の籠もる城を攻めたとき,与えられるのはわずかに3ラウンドの攻撃機会のみである。とりあえず付け城を構築して,そそくさと退散する以外にできることはなかった。 朝廷の使者が来て官位をくれたり,疫病で家臣達がほぼ全員寝込んだりといった事件を挟みつつ,春日山城を兵糧攻めで落とすには,それから半年もの期間が必要だったのである。 大金をつぎ込んで本城を飛騨高山から富山に移し,越後攻めには弾みがついたものの,同じく越後を蚕食し始めていた北条とは予想どおり敵対関係になった。そして秀吉の圧迫を受け続ける柴田家は,ついに窮余の一策として,我が家の領地に野心を持ち始める……
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